21gのとしょかん

ながいながい遺書

あたしではないかもしれない「あたし」

あたしではなくて「あたし」が喋ってると気づく。他人に見せたい「あたし」。演じられた「あたし」。デフォルメされた「あたし」。それでもつい最近までは、毎日ペルソナをとっかえひっかえしててもその下に素顔の存在を確信できていたのに、先日ふと化粧を落として鏡を見たらブラックホールみたいな空洞が広がっていて吸い込まれそうで吸い込まれそうで吸い込まれそうで吸い込まれそうで。目を擦って改めて鏡を見ればにっこりと笑顔が見えて安心するのだけど、どことなく目元が硬く見えるのは照明の問題かそれとも気づかず仮面をつけなおした証拠か。でも笑ってる「あたし」はカギ括弧無しのあたしよりきっと魅力的でSEO対策も万全なのだから嫌いじゃないし、少なくとも虚空よりマシな気がするからVoight-Kampffテストは早々に切り上げようと決めるのです。

 

世界は「記号」で溢れていて、自身の見るもの好むものが何を指しているのかがよくわからなくなることがある。それはコトバという記号を用いる以上仕方の無いことであるのだろうけど、気を抜けば今あたしが食べたいのはケーキなのか「ケーキ」なのかで大惨事自分大戦が勃発する:『今求めてるのは、苺の載った甘ったるい砂糖とクリームと小麦粉の塊?それとも「パーティー」だとか「贅沢」だとか「おしゃれ」だとか、そういう社会的なコンテクストを消費したりロールプレイしたいわけ?』

こう悩み始めれば、そういえば黒猫が好きなのは明らかに社会的通念の消費が目的で、あの温かい毛玉はたしかに愛おしいけど自分が求めてるのは「黒猫」に伴う神秘性とか孤独感とかE.A.Poeだとかというステレオタイプなのだ。黒猫には悪いことをしてるよねとは思うのだけど、でもこういう例がある以上自分のあらゆる感情が一定量の欺瞞を孕んでいるという感覚は否めず、きっと好きなのは本ではなくて「本」だし、スコッチではなく「スコッチ」だし、煙草ではなく「煙草」としてシンボライズされる希死念慮だとか憂鬱だとか反社会性なのだろう、と考えれば自分という存在も好意という感情も全て嘘っぱちに見える。やっぱりにっこり微笑むこれは素顔なんかじゃなくて仮面で、演技をしているその証左に現実では使わない「あたし」という一人称を無意識に用いているのだろうか。今日の文体に合うから「あたし」としたつもりなのだけれど、そもそも文体に合うという判断を下したのも文体自体を選択したのも全部全部「自分」で、その「自分」は「僕」なのか「あたし」なのか「うち」なのかわからないけどLa Vieとかいう演技の出演者であることにはきっと変わらないし、だけれどロミオ役とジュリエット役が現実に愛し合ってはいないように、「あたし」のラブシーンを演じる「真の自分」は、本当は別に何も感じていないのだろうか。ならば「真の自分」よ、あなたは一体誰なの?と怖くて怖くて仕方なくなるのだけど、こんなことを朝っぱらから文字化してるのはどの「自分」の脚本ゆえなのだろうかともふと考えたりもするのである。