21gのとしょかん

ながいながい遺書

ながいながい遺書

凡ゆる創作物が好き。本。映画。絵画。人形。音楽。「カタチ」はなんでもいい。他人の幻想に沈みたい。表現された世界がどんなディストピアでも、此処よりはきれいだから。

 

或いは。現実を解釈してつくられた僕の醜い『世界』も、ある種の幻想なのだろうか。僕の創ったものなのだろうか。ならばそれが醜いのは僕の醜さ故なのだろうか。それとも、実際に現実は醜くて、想像力が欠如している僕が馬鹿正直にしかそれを書き表せていないだけなのだろうか。よくわからない。

 

よくわからないけど、僕のみている『世界』を誰かに一緒に見てほしいという思いがあることだけはわかっている。それはホラー映画を一人で見たくないという欲求に似ているのかもしれない。とびっきり怖い動画を見た後になぜかリンクを他人に共有したくなるあの感じにも近いのかもしれない。恐怖の絶対量は減らないけど、トイレに行くのはやっぱり怖いままだけど、それでも恐怖を共有できるというだけで、誰かが一緒にいてくれるという可能性だけで、一瞬の安らぎを感じられる。

 

『世界』が死の瞬間まで創作し続けるものなのならば、それはある意味『遺書』とも呼べるのかもしれない。ふわふわの脳味噌に書かれた、飛び降りた直後に判読不能になってしまう『遺書』。でもそれだと怖いから、小さな便せんの上に石を置くつもりで僕は『遺書』を文字起こししているのです。例えばツイートとして。例えばブログとして。例えば本に挟まれた付箋として。誰かがこれを読んでくれることを願いながら、共有の幻想の中で少しづつ書き留め続けているのです。そうすると、少しは楽になれるから。

 

昨日もそうしたように、一昨日もそうしたように、明日死んだときに脱いだ靴と並べておくつもりで、今日も『ながいながい遺書』を書いています。明後日誰かが読んでくれると信じ続けながら。