21gのとしょかん

ながいながい遺書

帰国子女であることについての、どうでもいい愚痴

帰国子女羨ましいなあ、なんてたまに言われる。全然よくないよ、なんて口では言いながら、心のどこかでは「いいでしょ、羨ましいでしょ」なんて思ってたりする。その一方で、自分が「帰国子女」を名乗りつづけて良いのか疑問に感じることもある。住んでいたのだってたったの4,5年だし、帰ってきてから15年近く。英語だってもうあまり喋れないし、今も身についている僅かな残滓は、日本で得たものが大部分。丁度ひと月ほど前にアメリカ人の友達と会ったとき、ほとんど会話が成立しなかったことを思い出す。

でも、だからといって羨ましがられなきゃ、やっぱりなんかムカついたりする。

 

「オーストラリアの話して」とたまに言われる。大抵の場合数少ない幸せを、例えば家族で訪れたクイーンズランドジュラシックパークみたいで興奮したとか、当時は登れたエアーズロックはすごく風が強くて怖かったとか、川をボートで下って街の方まで行ったとか、仲良かったJuneって子がすごくかわいくってお花のリースとか作ってくれたとか、そんなことを話す。でも、本当は、これらは印象の弱い記憶で。本当は、もっと強く強く嫌な記憶ばかりが残っていて。大抵は誰にも言えないけれど、その中でも印象強いのは二つある。

 

一つは、マックでハンバーガーを頼んだ時の話。家族4人で街の方に来ていた。お昼何する?となって、多分僕が「ハンバーガー食べたい」なんて言ったんだと思う。マックは日本にいた頃から好きだった、まあ、当時はまだ小学一年生だしね。じゃあ行こうか、ってなった。マックはお外にあった。ズラっと並んだ銀色の安っぽいテーブルの上に、白くておっきなキャノピーが張ってあった。すごく天気が良かった気がする。

それで、親がカウンターで普通に注文するわけ、ハンバーガー3つとコーラ4つ、とか。あそこのテーブル空いてるから座って待っててー、なんて親に言われて。うっきうきで僕も妹も待ってる。

数分後、コーラがきた。コーラだけが、それもテーブルに乗らないくらいいっぱいの。十個じゃきかないくらいあったよー、って母がこの前笑ってた。こちらの注文の仕方の問題だったのか、向こうのミスだったのか、それとも嫌がらせだったのか、今ではわからない。いずれにせよ、当時は何か言う英語力なんて誰もなかったし、黙って全部受け取った。僕も幼いなりに何か異常を感じて、喉乾いてたとか言って飲んでたらしいけど、そこはあんまり覚えてない。鳩がいっぱいいたのと、涙目でごめんねと僕に謝った両親しか思い出せない。

類似のことは、その後もいっぱいあった。釣銭をもらえなかったけど言い返せなかったとかも少なくない。自分自身も学校で似たような目にあったこともある。でも、一番印象に残っているのはマックのこと。あの時初めて「親の敗北する姿」を目の当たりにしたからなのかもしれない。

そりゃ英語ぜんぜん喋れないくせにオーストラリアなんか突然行って、マック注文できませんでした辛いです、とか当然でしょ、とは思う。だから、本当に、自業自得なんだと思う。とは言え、あのことは絶対に忘れられない。「オーストラリアのこと」で真っ先に思い出すのはこれ。

 

もう一つは、夜泣きと妹のウサギの話。当時僕は現地のシュタイナ-スクールに通ってた。家から一時間半くらい車で行ったところ。妹は同じ敷地内の付属幼稚園。毎日母が送り迎えしてくれてた。往復一回でも3時間か、母ありがとうね、とほんとに思う。当時も結構思ってた。

「宇宙人」では少し悪く書いたけど、本当は小学校の人たち、いい人が多かった。たまに人種差別的なことを言われたり、いじめられかけたこともあるけど、今考えれば、お互い小学生だし僕だって仕返しに砂かけたりホウキで殴り掛かったりとかするくらいしてたし。

でも、小学校に行くのは嫌だった。授業中は、シュタイナースクールだったからなのか、幸い言語的な指示がわからなくてもあまり問題がなかった。けれど、昼休みは別。何をしたら良いのか、全然わからなかった。同級生に話かけられても、一緒に遊ぼうなのか近寄らないでなのか、冗談を言って笑ってるのか馬鹿にされてるのか、大抵の場合はわからなかった。知ってる子が遊具で遊んでいるのを見つけて、一緒に遊んでいたら先生に怒られたこともある。あいてる遊具で一人で遊んでいたら、やっぱり怒られた。遊具で遊ぶにも何か複雑なルールがあったのかもしれない、そういえば説明された気もするけれど、わからない。或いは、もしかするとそんなに強く怒られてなかったのかもしれない、というか、そもそも怒ってすらなかったのかもしれない。こんなことの繰り返しだった。だから大半の時間はずっと一人ぼっちでいた。そうすると先生たちが話しかけてくれたりした。でもそれだってやっぱり大抵の場合はどういう意味で話しかけられてるのかすらよくわからなかったから、混乱した。わからないということも、自分ではうまく伝えられなかった。

日本語のわかる子たちは自分以外にも何人かいた。でも、みんな二世かハーフで、彼らは自身を日本人とは認識していなかった。当然仲間意識などなかったし、助けてくれることは無かったどころか、むしろ率先して意地悪をしてきたくらいだった。優しくしてくれるのは前述のJuneという子を始めとした5人くらいしかいなかった。内、今でも名前を覚えてる程度の仲だったのはJuneだけ。赤い服の似合う子だった。

そんなわけで、学校に行くのは嫌だった。朝は毎日愚図ってたし、帰りは毎日愚痴ってた。帰ってからも毎夜布団で一時間くらいわんわん泣いてた。

当時、うちには日本から持って行っていた枕があった。二歳下の妹とお揃いで、僕のはクマさん型、妹のはウサギさん型。手元にずっとあった日本のものってあれくらい。だから二人とも結構大切にしてた。なんか名前つけてた気がするけど忘れた。

僕が布団で泣いてると、妹もたまに目を覚ました。大抵の場合、彼女は見ないふりしていたが、あるとき耐えかねたのか、「静かにして」みたいなことを言われた。小1と年中さんなので、それで当然喧嘩。今考えれば完全に僕が悪いけどさ。あーだこーだ言ってるうちに、小学生理論で、ウサギさん貸してくれれば許すだの許さないだの、渡せだの渡さないだのと言い合って、ウサギさんの耳をお互いに引っ張り合ってた。結果、ウサギの顔面真ん中で割れた。飛び出した白い綿見つめながら、「もう日本に帰れないんだろうな」と思ったのを覚えてる。

あの後、母が縫い直してくれたんだけど、その際に、元はなかった涙とかを刺繍しちゃったのは別の話。今考えても母ちょっと酷くね?と思うけど、みんな精神的に相当まいってたんだろうな、主にうちの夜泣きのせいでかもだけど。あのウサギさんはまだ家のどっかにある。クマさんはどこ行ったのか知らない、まだ捨ててないとは言ってた気がする。

ちなみに妹が夜泣いたことは全くなかった。性格的なことなのか、年齢的なことなのかはわからない。妹は涙の刺繍が入ったあとも、いつもウサギさんを抱いて寝ていた。

 

オーストラリアについて、もちろん楽しかった記憶が全く無い訳ではない。後半はずいぶんとましになったし、一年後ニュージーランドに引っ越してからは、もっともっと良くなった。それでも、大半は嫌な記憶。「オーストラリアの記憶」や「海外の記憶」とまとめると、やっぱり上の二つが真っ先に思い浮かぶ。

 

日本に帰ってきてからの苦痛だって、同じくらいあった。帰国後編入した小学校では「帰国子女」として排他され、その微かにニュージーランド訛りの日本語を馬鹿にされたりもした。日本語で喋っていたのに、「I mean」なんてふと言ってしまうことも少なくなかったが、そのたびに笑われ、発音が綺麗だのと煽られた。キーウィーとあだ名され、「ニュージーランドに帰れ」などと日常的に言われ続けた。「セックス」だとか「ラブホテル」だとかを「ネィティブの発音」で言わせられ、それを聞いては喜ばれた(ちなみに後者は和製英語)。日本で数年前に流行ったことがわからないから、会話には置いていかれた。ピクミンって何?などと言うと、「まあ、お前は日本人じゃないからわかんないよな」なんて笑われた。「自分だって、言われなくともニュージーランドに帰りたいよ」と何度思ったことか。

いじめがあった訳ではないと思う。彼らとは毎日昼休みにはサッカーをし、土日には家に呼ばれて一緒にスマブラをし、長期休みには数人で遊園地に行く程度には、「友達」だった。そういった相手に、普通にこういうことをされていただけ。本人たちにも悪意は無かったのだと思う。それでもいくら指摘しても変わらない状況は、自分にとって「帰国子女」という前科にまとわりつく呪いのようなようなものだった。

生徒だけではなかった。小学校には「here」を「hear」と書き間違える英語教師が居た。英語ができすぎる自分の扱いに困ったのか、毎回嫌な顔でこっちを見られた。最初の頃、明確なミスは指摘していたが、そのうち聞かないふりをされるようになったので、何も言わないことにした。あるとき呼び出され、授業に参加しなくて良いから本でも読んでろと言われたので、英語の授業中はニュージーランドで買った「ナルニア国物語」を教室の片隅でずっと読んでいた。

 

「帰国子女」になったことも、そうであることも、決して楽ではなかった。だから「海外に住んでたのか、羨ましいな」とか「帰国子女になりたかったなあ」と安易に言われると、嫌な気持ちになる。これまでさんざん「帰国子女」という名前で雑に包んで「日本人では無い存在」として疎み、「うちら日本人」から排してきたくせに。「帰国子女」という集団のステレオタイプに合致することを期待し、都合のよい崇敬の対象としようとしてきたくせに。

 

同時に、そんな状況に優越感を感じていたことはやっぱり否定できない。自分は「英語ペラペラなんでしょ、いいなあ」なんて羨ましがれるべき存在だと思っているフシもある。当然だよ、当然そうじゃなきゃいけないよ。こんだけ苦労して、それでもNZに行って2年目とかでようやく英語喋れるようになったんだもん、学校で毎週数時間だけしてた、お遊びみたいな英語とは一緒にしないで、あなた達とは違うんだから。自分は「特別」なんだから。

そしてその思いは、「自分は英語を当然喋れなければいけない」という義務感の形でも自分を刺す。英語を喋れることが、自分が通った苦悩を唯一証明するから。英語を忘れれば、「帰国子女」というステレオタイプに合致しなくなる以上、その集団に属せなくなる。排除の対象からは逃れられるが、同時に崇敬の対象からも外れてしまう。見た目も国籍も「普通」である以上、英語を喋れるというわかりやすい帰国子女のシンボルが、自己のアイデンティティを確立し、自身の苦労を証明する。

だから、少しでも「特別」の喪失を遅らせようと、英語を勉強する。「海外で苦労して英語が喋れるようになった存在」であり続けるために、国内で英語を勉強する。その行為に矛盾を感じたりするが、それでも、違和感さえ隠せば、英語なんて全然忘れてませんよ、ほらペラペラでしょ、なんて言いながら帰国子女という「特別」を続けられる。

 

勿論、自分もそこまで馬鹿じゃないから、やっぱりこんなの全部まやかしであることは知っている。本当は英語なんてもうほとんど忘れてるし、そもそも帰国子女なんて今時そんなに珍しくない。それでも、もう「貴方は特別」という幻想を過食した後だから、今更「貴方はもう特別じゃないですよ」なんて言われたところで、納得ができない。

だから、「特別」という状態を維持するために、「帰国子女」に代わる「特別」を持っていると主張しようとする。変わっている、日本人っぽくない、そう言われて喜んでみたりする。不思議とか芸術肌とか天才などと言われて嬉しがったりする。ポジティブじゃなくてもいい、変とかおかしいとかヲタクとかメンヘラとかサイコパスとか、なんでもいい、なんでもいいから自分が「特別」側のグループに属せてることを確認しようとする。そもそもグループに属してる時点で大して特別でもないのに。

 

結局、自分はもう「普通」なのだろう。せめてハーフだったらな、オーストラリア国籍ならな、消えない「特別」があったらよかったのにな、なんて思う。でも、何もない、「普通」の人間。いつの間にか自分の人生から消えていった、何十人もの「知り合い」たちと同じく、僕は替えの利く無個性の集合体の一部なのだろう。そして、自分が強い苦悩や苦痛を通ってここまで来たのに、それらを感じる必要のなかった人々と何も変わらないのならば、全ては無意味で無価値なものだったのだろう。ただの苦しみ損。その気付き故に苦しむ現状すら、やはり意味のないものなのだろう。

そんな苦しみを否定したくて、人生のリセットボタンを探したりする。痛みも苦しみも悲しみもなくなる都合の良いリセットボタンが、何処かに落ちていないか探したりする。周りが綺麗に敷かれた線路をどんどんと進む間に、未だ僕は歩き始められない言い訳をつぶやきながらリセットボタンを探したりする。もしかして線路に寝転んでみたりしたら「特別」になれるのかな、と思うけれど、それだって、もはやありふれた「普通」でしかない。

「普通」になってしまった僕は、「特別」になりたいという至極「普通」な感情に踊らされ続けている。「普通」には何十億もの代わりがいる、だからどんなに苦しんで、どんなに頑張って何かをしても、全て無価値。生きることも死ぬことすらも、全て、全て、無意味。

 

 

なら、もうずっとここで天井を眺めててもいいよね?