21gのとしょかん

ながいながい遺書

頸椎脱臼されたマウスと、自殺した知り合いについて。

研究室に配属されて初めてねずみを殺したときは吐気が止まらなかった。

戸惑いながら脱臼させると、半分しか頚椎が抜けなかった黒いねずみは左半身を硬直させて右腕だけでケージを引っ掻こうとする。焦って再度頭部を掴み尾を引っ張ると、今度は明確になにかが抜けた感触がすると同時に、手に排尿された。痙攣しながらゼイゼイと息をしているねずみは、生命活動を徐々に弱め、そして止まった。まだ生暖かい死体から、真っ黒に輝く眼球をピンセットで抉り取る。透明の液体へと落とした眼球は花のように血液を広げ、その中で揺れる白い視神経が昔聴いた怪談を思い起こさせた。不快感は本屋で初めて万引きしたときに感じた寒気にそっくりで、隣でためらいながらねずみを押さえる友達を「びびってんの?」なんて馬鹿にした。脱糞しピンク色の舌を出したまま動かないねずみをみつめながら、ちょっと前に首を括った知り合いの死体もこんな感じだったのだろうか、と右手の震えを隠しながら考えた。

 

あれから数ヶ月たった。

今日眼球を回収したときには何も感じない自分がいた。マウスの首を押さえて尾を根元から引っ張り(同時に頭を前に押すのがコツ)、脱糞し痙攣してるのを傍目に先輩と談笑しながら絶命を待つ。視神経をピンセットで掴み眼球をPBSの入ったディッシュへ落とす。そのまま眼孔から血の滲む「マウスだったもの」を、敷いていたキムタオルごとファミリーマートのビニール袋へ放り込んだ。

動物実験の是非はともかくとして、それがどうしても必要な研究をしている以上マウスを安楽死させることは少なくない。毎回怖がっていては実験も進まないし、「慣れ」はある程度必要なのも分かってる。 でも、いざ慣れてみると今度はその慣れそのものが怖くなった。

 

 

初めて知り合いが自殺したと聞いたときを思い出す。マンションの屋上からとびおりたらしい。突然のことだった。彼女の死体がなにもできなかった自分を呪う夢をしばらく見続けた。死の直前にツイッターでつぶやいた一言がしばらく無意味に有名になり、人の気も知らないで無責任な憶測や批判が噂された。死ぬ前の様子がぶしつけに聞かれたりもした。「冬のマンションの屋上はきっと寒かったと思う」みたいなことを答えた気がする。

 

もう、あれから数年たった。

少し前に,別の知り合いが首を吊ったと人づてに聞いた。今はほとんど関わりもない人だったしあれ以降ほかの知り合いも数人自殺していたのですっかり慣れている自分がいた。夕飯の頃にはすっかり忘れていた。寝る前に一瞬思い出したが、その程度だった。 

 

 

もしかしたら慣れる前の恐れている自分ではなく、慣れた後の無情な自分こそが「本当の自分」なのかな、と最近思う。食わず嫌いのように、未経験のものへの非論理的な感情のみが死や殺への恐怖の理由に過ぎないのかもしれない。

きっと人を殺すことだって、怖かったりためらったりするのは最初だけなのだろう。気づけば腹に一発頭に一発、まるで釘でも刺すかのように、夕飯の献立でも考えながら撃ち込めるようになるのだろうか。そして殺したことすら夜にはすっかり忘れているのだろうか。

殺すのは自分だっていい。びくびくしてしまうのは一過性の感情にすぎないのかもしれない。

 

ねずみは、明日もきっと殺す。