21gのとしょかん

ながいながい遺書

はてなスターがうまくつけられない

はてなスターがうまくつけられない(記事タイトルを繰り返すマン)。お星様つけようとするとログインしろといわれて、ログインしてるけど一応もう一度ログインしなおすけど、結局無理。ブラウザの問題だとは思うんだけど、このブラウザ気に入りすぎててな。。

 

ので、みんなの記事読んでないわけじゃなくて、ただ星をつけられないのです、ごめんね。

幻肢痛

幻肢痛【名詞】

《英》phantom pain。病気や怪我等で失われた肉体の一部が、存在しないにもかかわらず痛むこと。肢端切断者の7割以上がこれを訴えるとされる。たいていの場合数週間で痛みは落ち着くが、患者によっては一生感じ続ける場合もある。切り落とした部位が大きいほど、痛みが増大するという報告がある。

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自分について(4; 大学時代2014-2018)

自分について(1, 1994-2005) - 21gのとしょかん

自分について(2; 小学校時代2005-2006) - 21gのとしょかん

自分について(3; 中高時代2007-2012) - 21gのとしょかん

 

二週間前

大学を休んで、本を読みながらアールグレイ片手にシュークリームを食べた。シュークリームを食べたかったのは先週から。家から3分もかからないケーキ屋さんへ行けば買えるのは知っていたのに、外へ出るまで2週間かかった。その間一度も玄関から出ることはなかった。

アールグレイから上がる湯気が、少し肌寒さの残る5月の空気へ溶けていく。小学校は進学校だった。中学受験をして、名の知れた中高一貫校へ入れた。そこでも成績はほぼ常に学年で10位以内だった。地元の旧帝国立医学部を志望に書いたら「君はそんなところじゃもったいない、せめて阪大医学部くらいにしなさい」と言われた。受験は失敗したけど、特待生で予備校に入り前期分の学費が無料になった。結局浪人までしたのに馬鹿みたいに学費の高い私立しか受からなかったけど、それでも私立薬学部には入れた。大学でも「天才」なんていろんな教授に言われた。研究室でも「私の後を継いで欲しい」なんて入って数ヵ月後から言われ続けた。「あなたは天才だから普通の人がわからないのです」なんて怒られたりもした。どこまで本気だったのかは分からないけど一定の評価をしてくれていたのはきっと事実なのだとは思う。

カスタードが机にぽたりと垂れるのを眺めた。もう大学は続けられない。続けたくない。二学年下に配当されてる講義を、大教室で知らない人たちに囲まれて、吐き気と焦燥感を隠しながら出席カードだけ提出して。帰りに寄る珈琲屋の香りと鞄に入れた耽美な文庫本と一箱のラッキーストライクだけが「現実」的だった。無為に飲む酒だけが有意なものに思えた。

もう疲れた。もう諦めよう。消えていく湯気を眺めながら、ぽたりと垂れるカスタードを見つめながら、泣きながら、ぼんやりとそう決めた。

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げんじつ

最近は昼夜が逆転してる。暗くなってから起きて明るくなったら寝る用意をする。Breakfastは夜ご飯で、good morningはお休みなさいなそんな毎日。

こうしていると人と生活リズムもみてるものも変わってきてしまって、そうやって現実が幻日になって逆転して逆転して逆転して気づけば今どこにいるのかどっちにいるのかわからなくなってゆめのなかでみた景色の方が150年前に書かれた小説のほうが「いま」に思えてきて「ああ仕事探さないと」なんて焦っているような焦っていないような自分よりもゆめのなかで父の車に爆弾仕掛けた自分の方がリアルに見えて、昨日も眠っているときに父に言われた「死ぬなよ」という言葉に目が覚めてから泣いてでもこちらで起こったことには泣いたこと最近ないななんて思ってやっぱりあれは眠ってたんじゃなくてむしろ今が眠ってるのか?もう何もかもわからなくてそのうち生死すら逆転するかもしれなくてそういえば今自分が「生きている」のは、この世があの世でないとはだれが証明できる??なんて思ったりもしたけどよく考えたらこれは定義の問題である以上無意味な問いかけだね。

ネーベル展で好きだった絵

以前行った「オットー・ネーベル展」で好きだったもの、メモ失くす前に転記プラスα。6/24まで京都文化博物館でやってます。東の京都の方ではもっと前にやってたっぽい?調べてないので違うかも。

あくまでも半分個人用のメモとゆーことで、もしかしたら間違えてること書いてるかもしれないし、見当違いのこともあるかも。もっと別のメモもあるんだけど、そちらはこれ以上に個人的なので此処には載せないでおきます。

京文博はアスタルテ書房はじめとした古本屋さんも、錦市場も遠くないし、いいところよ。あと途中で見つけた『ギア』という劇場?ちょっと興味があった。

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あたしではないかもしれない「あたし」

あたしではなくて「あたし」が喋ってると気づく。他人に見せたい「あたし」。演じられた「あたし」。デフォルメされた「あたし」。それでもつい最近までは、毎日ペルソナをとっかえひっかえしててもその下に素顔の存在を確信できていたのに、先日ふと化粧を落として鏡を見たらブラックホールみたいな空洞が広がっていて吸い込まれそうで吸い込まれそうで吸い込まれそうで吸い込まれそうで。目を擦って改めて鏡を見ればにっこりと笑顔が見えて安心するのだけど、どことなく目元が硬く見えるのは照明の問題かそれとも気づかず仮面をつけなおした証拠か。でも笑ってる「あたし」はカギ括弧無しのあたしよりきっと魅力的でSEO対策も万全なのだから嫌いじゃないし、少なくとも虚空よりマシな気がするからVoight-Kampffテストは早々に切り上げようと決めるのです。

 

世界は「記号」で溢れていて、自身の見るもの好むものが何を指しているのかがよくわからなくなることがある。それはコトバという記号を用いる以上仕方の無いことであるのだろうけど、気を抜けば今あたしが食べたいのはケーキなのか「ケーキ」なのかで大惨事自分大戦が勃発する:『今求めてるのは、苺の載った甘ったるい砂糖とクリームと小麦粉の塊?それとも「パーティー」だとか「贅沢」だとか「おしゃれ」だとか、そういう社会的なコンテクストを消費したりロールプレイしたいわけ?』

こう悩み始めれば、そういえば黒猫が好きなのは明らかに社会的通念の消費が目的で、あの温かい毛玉はたしかに愛おしいけど自分が求めてるのは「黒猫」に伴う神秘性とか孤独感とかE.A.Poeだとかというステレオタイプなのだ。黒猫には悪いことをしてるよねとは思うのだけど、でもこういう例がある以上自分のあらゆる感情が一定量の欺瞞を孕んでいるという感覚は否めず、きっと好きなのは本ではなくて「本」だし、スコッチではなく「スコッチ」だし、煙草ではなく「煙草」としてシンボライズされる希死念慮だとか憂鬱だとか反社会性なのだろう、と考えれば自分という存在も好意という感情も全て嘘っぱちに見える。やっぱりにっこり微笑むこれは素顔なんかじゃなくて仮面で、演技をしているその証左に現実では使わない「あたし」という一人称を無意識に用いているのだろうか。今日の文体に合うから「あたし」としたつもりなのだけれど、そもそも文体に合うという判断を下したのも文体自体を選択したのも全部全部「自分」で、その「自分」は「僕」なのか「あたし」なのか「うち」なのかわからないけどLa Vieとかいう演技の出演者であることにはきっと変わらないし、だけれどロミオ役とジュリエット役が現実に愛し合ってはいないように、「あたし」のラブシーンを演じる「真の自分」は、本当は別に何も感じていないのだろうか。ならば「真の自分」よ、あなたは一体誰なの?と怖くて怖くて仕方なくなるのだけど、こんなことを朝っぱらから文字化してるのはどの「自分」の脚本ゆえなのだろうかともふと考えたりもするのである。