21gのとしょかん

ヒトの命なんて,所詮21gしかないの。

闇への逃走

なんか昔書いたの見つけたので

 迫り来る巨大な眼球。充血したそれは、闇の中でライトアップされたかのように、異様にはっきりと見える。あらゆる物理法則を無視しつつ、ただあたしをしつこく追い続けてくるぬめりとした球体。漆黒の瞳に映る己の後姿はきっと滑稽だろうな、なんて思いつつ、あたしはただ転がるように走り続けている。

そもそもあいつが悪い。大事にしていた人形を壊された。ムカついた。だからナイフを手に躍りかかってみた。意外といい線行けるかな、せめて謝罪の言葉くらいは聞けるかな、そう思ったのはつかの間、狂気の深淵からじろりと見つめ返され、あっごめんなさい、なんてばかみたいな声でつぶやいてから、一目散に逃げ出して、今に至る。

いつまでも逃げ続ける体力なんて無いことは、とうの昔から察していた。脚はすでに感覚がなかったし、だんだん酸欠で目も眩んできている。おなかもすいたしのども渇いた。でも、立ち止まる勇気なんて無かった。あの巨大な眼球、せめて卵ならマシだったのに。

壊された人形は、本当に大切なものだった。ずっと前から、ずっとずっと前から、大好きだった。あたしの初めての友達で、親友で、恋人だった。でも、いくら大切にしてても、壊すのにかかるのはものの数秒。ばんっ、はい終わり。かつてあれほどまでに愛おしかった存在は、コンマ数秒で見にくい肉塊になった。あたしに向かっていつも優しく微笑んでいたあの赤い唇はゆがみ、今やあたしを嗤い、蔑むものとなっていた。

ちらりと振り向くと、眼球が二つになっていた。見つめてるうちに四つになった。足を速める。再度振り向くと、世界は輝く眼球でいっぱいだった。あれはきっとオリオン座かな。あっちの蠍座を狩ってこーい、ついでにあの眼球も。そうだね、あたしが他力本願の臆病者なのは否定出来ないや。

帽子をかぶった藁人形が背後から追いついてき、コップを手渡してきた。そうか、襲い来る眼球あれば、救う藁人形あり、ね。水で満たされたそれを手に取り口へと運ぶが、水は、唇に触れた瞬間乾いた砂へと変わった。藁人形は身体をのけぞらせ、笑声を上げる。手に持ったコップを投げつけるが、それは相手へ届く前に黄金の砂へと化し、あたしの眼に突き刺さった。拾う神なんて夢の中の夢にすぎませんよ、藁人形はやはり笑いながら風に吹かれて行った。

溢れて出る涙をぬぐうと、薄いカーテンから光の漏れる古びたアパートと、点滅する電灯に照らされる住宅街を、いつからかあたしは走っていることに気づいた。そういえば背後に眼球の群れの気配はもうない。音割れしたベートーベンの交響曲第九番第二楽章が、何処からか聞こえてくる。ホッとため息をつく。割りこむような革命エチュードモーツアルトのラクリモーサ。耳をつんざく話し声。大音量で流れるヴィヴァルディの四季。泣き声。笑い声。喘ぎ声。受験生の走らすペンの音。下手なピアノ。窓の閉められる音。綺麗な月があたしにほほえむ。田んぼにたった古びた藁人形が囁く。馬鹿じゃないの?そして、突如と訪れる、無音。暗闇。

再び、あたしは暗闇の中を走っていた。背後には、また眼球の群れが迫ってきている。いや、本当はわかってる。人形を踏みつぶしたのはあたしだし、迫り来る眼球の大群なんて、己の欲望と恐怖心が生み出した幻影にすぎない。輝く水晶体に見えたのは、綺麗な満月でしか無い。そんなこと、わかってるのに。

わかっているのに、あたしは立ち止まれないんだ。すべて嘘だって知ってるのに、なにから逃げているんだろう。いつまで、逃げるつもりなんだろう。ただ傷つきたくなくて、闇の中を走っている。そんな自分をも、「あなたは必死に頑張ってる、えらい」なんて甘い言葉をかけて肯定してくる『自分』すらをも、刺し殺せずに、果てのない闇への逃走をあたしは続ける。もう、いいかげんやすみたいのに。

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