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21gのとしょかん

ヒトの命なんて,所詮21gしかないので。

頸椎脱臼されたマウスと,自殺した知り合いについて。

研究室で初めてねずみを殺したときは,冷や汗が止まらなかった。本屋で初めて万引きしたときに感じた,寒気と罪悪感に襲われた。さらにその死体から,研究に使うために眼球をえぐり取った時には,手が震えた。恐怖を隠すために,「なにびびってんの?」なんて,隣で同じ実験をためらいながらしてる友達を馬鹿にした。ちょっと前に首をくくった知り合いも,死に際はこんな感じだったのだろうか,と舌を出したまま息絶えたねずみをみつめながら,右手の震えを隠しながら。

あれから数ヶ月たった。

今日眼球を回収したときには,何も感じない自分がいた。マウスの首を押さえながらしっぽを引っ張り,脱糞し痙攣してるのを傍目に先輩と雑談し,そして視神経ごと黒い眼球をピンセットで引っこ抜いて,無感情に穴から血がにじみ出る「マウスだったもの」をコンビニ袋に放り込んでいた。

動物実験がどうしても必要な研究をしているので,マウスを頸椎脱臼で安楽死させることが少なくない。毎回怖がっていては実験も進まないし,馴れもある程度必要なのも分かっている。 だが,いざ馴れてみると今度はその馴れそのものに恐怖を覚え始めた。

 

 

 

そういえば,初めて知り合いが自殺したと聞いたときにも,手が震えた。マンションの屋上からとびおりたらしい。突然のことだった。彼女の死体が,なにも手を延べなかった自分を呪う夢をしばらく見続けたのを覚えている。狭い界隈の中ではだけど,ちょっとした有名人だったので,死の直前にツイッターでつぶやいた一言がしばらく無意味に有名になった。人の気も知らないで,死ぬ前の様子がぶしつけに聞かれたりもした。「冬のマンションの屋上は,きっと寒かったと思う」みたいなことを答えた。

もうあれから数年たった。

少し前に,別の知り合いが首をくくったと人づてに聞いた。今はほとんど関わりもない人だったし,あれ以降ほかの知り合いも数人自殺していたので,もう馴れている自分がいた。夕飯の頃にはすっかり忘れていた。寝る前に一瞬思い出したが,その程度だった。

 

 

もしかしたら,馴れる前の恐れている「自分」ではなく,馴れた後の無情な「自分」こそが「本当の自分」なのかなと最近思う。食わず嫌いのように,未経験のものへの非論理的な感情のみが死や殺への恐怖の理由に過ぎないのかもしれない。きっと,人を殺すことだって,怖かったりためらったりするのは最初だけなのだろう。きっと,気づけば腹に一発,頭に一発,まるで釘でも刺すかのように,夕飯でも考えながら撃ち込めるようになるのだろう。そして,殺したことすら次の日にはすっかり忘れているのだろう。殺すのは自分だっていい。びくびくしてしまうのは一過性の感情にすぎないのかもしれない。

明日もきっと,ねずみを殺す。