21gのとしょかん

ヒトの命なんて,所詮21gしかないの。

『君主論』メモ <感想/解釈など>

君主論』やマキャベリフィレンツェについてちょっと調べたので、感想もかねてまとめました。マキャベリが史実では傭兵部隊に惨敗した、ってどっかで聞いたことあって、それ探したんだけど、残念ながら見つけられなかったです。

<目次>, <PART 1>, <PART 2>, <PART 3>, <PART 4>, <感想/解釈>


i) 『君主論』はそもそもメディチ家に読まれていたのか、など

君主論』の冒頭にある献辞はLorenzo de' Medici(1412-1519)にあてられていますが、結論から言うと、少なくともマキャベリの死後に発行されるまでメディチ家に読まれてた証拠はないみたいです (英語版wikiの注釈[25]; Dent, 1995)。

マキャベリはもともとフィレンツェ共和国の官僚でした。1499年に彼はピサ戦線を視察するのですが、その際の傭兵隊長の横暴さを目にしたそうです。その後1502年には彼が『君主論』で高く評価してるヴァレンティーノ公と一緒に過ごしました。ちなみに当時、ヴァレンティーノ公はダヴィンチを重用していたとか。

少し飛んで1510年、フランスに対抗するために神聖同盟が結成されます。このとき、マキャベリの仕えるフィレンツェ共和国は中立政策をとりますが、結果1512年のスペインによる侵略、親メディチ派の内乱で、フィレンツェはボロボロに。メディチ家が政権を握ると、マキャベリは解任されてしまいます。そしてさらに1513年にはGiuliano di Lorenzo de' Mediciに反逆の罪で捕らえられます。拷問にかけられたが容疑を否認し、3週間後に恩赦されて解放されました。

同年、田舎に引っ越した彼は『ディスコルシ』を書きはじめますが、Giulianoに献上するためにいったんこれを中断し、『君主論』を年内に書き上げます。献上しないうちに、Giulianoは1516年に死亡するものの、そのころにはもう『君主論』の手稿がフィレンツェ内外で読まれるようになっていたみたいです。なお、『君主論』が公に出版されたのは、マキャベリの病死(1527)後の1532年でした。

Giulianoに渡されなかった『君主論』は、献辞で述べられるように、結局Lorenzoに献上されます。しかし、彼もそれに対してなんの感想も残しておらず、冒頭の通り、おそらく読んでいなかったとされています。そもそも共和制を推してたマキャベリを信用していなかった、といううわさもあったり。

ただ、1521年-1525年には、Giulio de' Medici(クレメンス7世)に『フィレンツェ史』を書くよう依頼されています。これは『君主論』を含めた彼の様々な著作が(思想ではなくあくまで文章が評価されていたのだとしても)、フィレンツェの人々に評価されていたからであるといわれています。

その後のフィレンツェについて。メディチ家は1527年にフィレンツェから追い出されますが、1530年に帰還。フィレンツェは1532年-1569年はフィレンツェ公国として、1569年-1860年はトスカーナ大公国の首都として栄えます。メディチ家の支配は1737年まで続きますが、その後はハプスブルク家に支配され、1860年にイタリア王国の一部に。

また、イタリアの統一自体もウイーン会議(1815)から始まったRisorgimentoを受け、1861年のイタリア王国成立、そして1871年のローマ奪取で完成。つまり、マキャベリ念願のイタリア統一は、『君主論』発刊後から300年以上かかったのです。残念ながら、イタリア王国初代国王Vittorio Emanuele IIが『君主論』を読んでいた、という話は見つけられませんでした。読んでたら面白かったんだけどなあ。。


ii) マキャベリは『マキャベリスト』だったのか、など

大辞林によると、「マキャベリズム」とは:

1.どんな手段でも,また,たとえ非道徳的行為であっても,結果として国家の利益を増進させるなら許されるとする考え方。イタリアの政治思想家マキャベリの思想から。

2.目的のためには手段を選ばないやり方。権謀術数主義。

実際にマキャベリがどこまでマキャベリストだったのかには、いろいろな意見が見られますが、例えば池田廉訳『君主論』の巻末解説によれば、『君主論』はイタリアの危機的状況が前提になっている臨戦時を想定しており、一時的な悪事も場合によっては認められるとしか言っていない、としています。

自分もこれにある程度同意で、さらに付け加えるのなら、マキャベリはあくまで非道徳的行為を例外的措置として仮定しているように自分には読めるため(XV, XVIIIらへんを参照に)、決して「君主は悪事をしてもよい(or するべきだ)」とまで主張しているようには感じられないです。先ほどの大辞林をまねるなら、マキャベリ的には「善徳を守れない場合に限って、国を統一するためには非道徳的行為であっても許される」なのではないかなと。

いずれにせよ、項目2は拡大解釈しすぎで、マキャベリの「本心」は別としても、少なくとも『君主論』のみからは読み取れないのではないかなと。

君主論』の解釈で、個人的に面白いなと思ったのが、『君主論』は君主国のネガキャンだった説。マキャベリは『ディスコルシ』で詳しく述べるように、共和制を支持していたし、1513に投獄されたことをおそらく恨んでるだろうし、ぱっと見ありえなくはなさそう。ただ、多少無理があるのではないかな、と。仮に君主国のネガキャンなら、当然メディチ家は敵に回されるわけで、だとしたらまた投獄される危険を承知で献上するかなぁ、とか、『フィレンツェ史』をメディチのために書くかなあとか。

逆に、マキャベリメディチの投獄を「正当化」するために『君主論』を書いたのではないか、というのがHistory Todayの記事で紹介されていました。Giulianoは片っ端から反逆者になりそうな人をまるで魔女狩りのように捕まえていき、マキャベリを無実の罪で拷問にかけ(左肩脱臼したらしい)、隠遁生活を余儀なくさせた(記事中には追放とされていますが詳細は不明です)。しかし、これはイタリア統一のために犯さなくてはならない悪徳で、正当な行為であったから、マキャベリメディチ家を憎んでいない(だから『ディスコルシ』は別に反メディチ本ってわけじゃない)。これが彼の言いたかったことなら、Giulianoに献上しようとした意味も分かるし、彼が『ディスコルシ』を中断してまで『君主論』を書き上げた理由もなんとなく納得できるかなと。


0. 『君主論』メモ 目次

1. 様々な種類の君主国と、それぞれの特色 (I - IX, XI)

2. 軍隊について (X, XII-XIV)

3. 君主の民衆に対する態度について (XV - XXIII)

4. 結論/イタリアについて (XXIV - XXVI)

5. 感想/解釈/調べたこと

誤り等ありましたら、しい@sk_ritsにお願いします。